Unplugged


わかれ

 あれらの日々が小序だとすれば、自分たちはなんてはるかなところまで来たのだろう。律子の子どもをみながら、沙耶は思っていた。太一くんはさきほどまでなにやらあうあうとしゃべっていたが、ミルクを飲んで眠くなった様子。律子が隣の部屋に寝かせにいった。リビングは嘉一と沙耶だけになる。
「もう描いてないの」
 気まずい雰囲気を和らげようと、沙耶が嘉一に聞く。ああ、と嘉一は答えて、アトリエを持つだけのスペースもないしな、と付け足した。確かに、3LDKのマンションは生活用品や子ども用品で埋まっている。
 学生時代の嘉一は、毎日のように画材に囲まれていた。ニュー・フォービズムと称して、原色を用いた派手なインスタレーションを行っていた。従来のフォービズムが画風の野獣性にとどまっているのに対して、真のフォービズムは創作方法も野獣的でなくてはいけないなんて言ってたっけ。学生だからこそ許される青い主張。
 嘉一より一年下の沙耶は、少なからず彼の影響を受け、共感したりもした。彼のいう野獣的な創作方法を取ることこそできなかったが、画風そのものは原色が中心で、嘉一の方向に近かったと思う。
 律子は違っていた。彼女の作品はパステルが中心で、女性誌のカットに似合いそうだった。商業的に過ぎる。嘉一も沙耶も彼女の作風をそう批評していた。そういう点で、律子より沙耶の方が嘉一に近かったと思う。彼のことを理解しているのは自分だという思いが沙耶にはあった。二人はときに共同制作もし、互いの作品を認めあっていた。
 だから、意外だった。大学を卒業した嘉一は広告会社でグラフィック・デザイナーとして職を得た。それは彼がもっとも嫌っていたはずの商業デザインではなかったのか。沙耶はショックだった。
 追い打ちをかけるように、嘉一と律子の結婚の話が耳に入る。少し切り出しにくそうに告げた律子。もちろん、嘉一と沙耶はつきあっていたわけではない。作品を通しての結びつきに過ぎない。傷つかないと思っていた。それなのに、自分が深く心を痛めていることに沙耶は驚いた。
 嘉一は変わってしまった。そう思った。それでも彼女は、嘉一の良き後輩として、律子の親友として、それまでと同じつきあいを続けた。
 やっと寝たよ、そう言いながら律子がリビングに戻ってきた。その後何を話したか、沙耶は覚えていない。ただ、もう日が暮れかかっていた。
 帰らなくっちゃ、沙耶は言って、最後にもう一度太一くんに挨拶してくる、と隣室に向かう。嘉一と律子はそのままリビングのテーブルで休んでいる。
 太一くんは起きていた。ひとりで手をばたばたさせている。沙耶はこわごわ太一くんを抱き上げた。帰るね、顔をのぞき込む。ひとえの涼しい目は、嘉一のそれと同じだった。彼に似ている、そう思った。
 そして、ふと気づいた。太一くんが着せられている服。赤や青の原色を使ったそれ。太一が学生時代に好んで使っていた色だった。きっと彼が選んだのだ。
 変わっていなかったんだ。ふと、そんな思いが胸に落ちてきた。沙耶は太一くんの服をじっと見つめ続けた。
 沙耶は太一くんにほおを寄せた。ごめんね、小さな声でつぶやいた。ようやく、学生時代に始まった物語が収まるべきところに収まった気がした。
 ごめん、起きてた。言いながら、律子が入ってきた。沙耶は太一くんを律子に渡す。嘉一と律子は玄関口まで見送ってくれた。
 戸口で、沙耶は振り返った。太一くんが律子の腕の中にいた。じゃあね。そういったとき、偶然だろうか、太一くんがこちらを向いて笑った。その笑顔に、沙耶は手を振った。ありがと、さよなら。そう言った。
 太一くんに、そして今日までのすべての物語に。

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小序
[自分の著作物に対する](短い)序文。

フォービズム
[フ fauvisme,fauve=野獣]二十世紀の初め、フランスのマチスなどが起こした絵画運動。単純化と強い色彩が特色。野獣派。

少ない
(1)同種の他のものに比べて、より小さい数量だ。
(2)その状態の存在(実現)の度合いが思ったより低い。

作者:小橋昭彦



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