Unplugged


好敵手

 夕立になったらしい。体育館の天井に、のような雨音がたたきつける。
 しかし少年の耳にその音は入っていなかった。心を静め、手ぬぐいを頭に巻く。あと一戦。この試合で、ぼくの優勝が決まる。
 少年は、体育館のもう一方の壁際ですでに面をかぶり終えた対戦相手をにらんだ。先ほど見たトーナメント表に書かれたその名を、少年は知らなかった。それが不安と言えば不安だ。この地域で彼より勝る相手はいないはず。昨年度優勝の彼はそう確信していた。事実、ここまですべて延長もなく順調に勝ち進んできた。小学生活最後のこの試合も、彼の勝利に終わるはずだった。
 少年は面を持ち上げ、頭にかぶる。左胸が少し痛む。準決勝の試合で相手の竹刀が胴のすきまに入り込んでできた突き傷だ。そっと手をあてる。多少あざが残るだろうが、心配するほどのことではない。
 面をしっかり縛る。勝てない相手じゃない。ぼくが負けるはずがない。少年は左手に竹刀を持つ。相手はもう向こうのライン際に立って彼を待っている。弱いものに待たせればいい。少年は宮本武蔵の気分になっている。
 礼をして、仕切り線まで進む。相手にあわせ、少年もゆっくりそんきょし、竹刀を交わす。
 雨脚が激しくなり、いちだんと暗くなった。少年ははじめてそのことを意識する。体育館の天井の照明だけでは、面に隠された相手の表情をうかがうことはできない。
 はじめ! 二人は立つ。声を上げ、間合いをはかる。はじめにけしかけたのは少年の方。軽く相手の小手を払い、面を打って出る。下がりながら、相手はそれを自分の竹刀で防ぐ。すかさず胴を狙う。外れた。瞬間、敵の竹刀が彼の面を打つ。距離がありすぎる。かすれただけだ。
 間合いを取り直す。竹刀を下げ、小手を見せる。相手が打ってくる。狙い通りだ。すっと腕をそらし、敵の面を狙う。と、空振りするかに思えた相手の竹刀がそのまま水平に動き、面を狙うために空いた彼の胴を切った。
 しまった! 少年はちらと審判を見る。ひとりが赤旗を上げた。相手側の色。が、あとの二人は一本と認めていない。助かった。
 だが、少年の心には焦りが芽生える。違う。こんなはずじゃない。もっと簡単に仕留められるはずだ。ぼくにかなうやつがこの地域にいるはずがない。誰だ。彼は相手の前垂れにつけられた名前を見る。やはり知らない名前。
 すっと相手が動いた気がする。少年はとまどい、その先に相手の面を打つ。右、左、右。相手は防ぐ。読まれている。こいつはぼくの動きを読んでいる。少年の心が冷える。そんなはずはない。ぼくがいちばん強いはずだ。そのままつばぜりあいに入る。
 少年は相手の顔を見ようとする。見えない。夕立のせいだ。外は真っ暗だ。くそ、どんなやつなんだ。彼はさらにつばで押す。
 審判が場外を宣告し、二人を離す。中央に戻り、仕切り直す。少年はすでに冷静さを欠いている。またやみくもに打って出る。なぜ決まらない。こいつはぼくの動きを読んでいるのか。技がすべて封じられる。いや、動きを読んでいるのなら、なぜ先制しない。何を考えているんだ。
 それは恐怖といってもいい感情だった。ここ何年かで、初めて少年を襲った思い。ぼくは負けるのか。
 少年は再びつばぜりあいに入る。どんなやつなんだ。相手の面の奥をのぞき込む。ぼくにこれだけの思いをさせるのは、どんなやつなんだ。暗い。さらにのぞき込む。
 その時、稲妻が光った。館内に白い光が満ち、面の奥に隠れていた相手の顔を一瞬照らし出した。
 少年の動きが凍りついた。


「残念だったね」
 試合後、面を外している少年のもとへ、コーチが声をかけてきた。「雷に目がくらんだんだろう」
 少年の顔は憔悴しきっていた。とても十歳あまりの表情には見えない。
「気にするな。中学でがんばればいいさ」
 少年はかすかに首を振る。違うんです、と小さな声でいう。
「彼、この夏休み前に転校してきた子だって。去年全国大会にも出た子らしいぞ」
 コーチの言葉がうつろに響く。「仕方ないさ、そんな子に負けたのなら」
「違うんです」
 少年はまた小さな声で繰り返す。彼の目に、稲妻の光の中で見えた面の中の相手の顔がよみがえる。ぶるっと身体を震わせる。左胸を押さえた。痛い。いや、これは突き傷の痛みではない。
 こわごわ、向こう端で面を外す相手を見る。まっすぐな髪の、二重の少年。
 違う。あの時ぼくが見たのは、彼ではなかった。あんな、初めて見る顔じゃなかった。もっと見慣れた顔。
「全国レベル相手にあれだけやったんだ、すごいことだぞ」
「違う」
 光の中で浮かんだ顔。毎日、毎日、見慣れた顔。鏡の中で、ガラスの中で。
「おい、しっかりしろよ」
「ぼくは、ぼくに負けたんです」
 その日から、少年はひとつ大人になった。

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準決勝
(トーナメントで)決勝に進出する二人の選手(二つのチーム)を決定するための、二つの試合。

突き傷
突い(かれ)て出来た傷。

(雨を伴って)急に激しく吹き荒れる風。[一時、家庭(社会)の内部に起こるもめごとや感情の揺れ、また非常事態の意にも用いられる。]

作者:小橋昭彦



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