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いかのぼり
57、2、9。表計算ソフトのランダム関数によって生み出された数字に添って、ぼくは新明解国語辞典を開く。
五七ページの二段目、九行目。三題話のために選び出された三つ目の単語がそこにある。「いかのぼり」。ぼくはしばらくその文字を見つめている。こんな単語が出てくるとは思わなかった。ぼくは少しとまどいながら、ゴシック体の文字を見つめる。
ひとつの光景が文字の向こうから立ち上がり、どうしても消えようとしない。三題話にするべき他のふたつの単語の印象は薄れ、物語の形を成さない。
いかのぼり。ぼくの生まれた地方ではかって、凧のことをそう呼んでいた。ただ、ぼくの子どもの頃でさえそれは、ほとんど老人の間でしか使われていなかった。
厳しい父親のもとで育ったぼくは、凧を買ってもらった覚えがない。ともだちも持っているからとねだるぼくに、父はそんなもの自分で作れと一喝した。
ぼくは近所の竹薮に入り、雪の重みで倒れた竹をそいで竹ひごを作り、それを芯として凧を自作したものだ。ぼろぼろになって使われなくなった畑のビニールトンネル用シートを貼って。
父は一度も手伝わなかった。畑に出るか、近くの工場に勤めるかでずっと忙しくしていたようだ。そんなわけだから、ぼくの凧は不朽の名作になるはずもなく、高く上がる友だちのきらきら光る凧と違って、地上付近をぶざまにさまようのだった。
あれはいつのことだったか、ぼくは三日がかりで仕上げた和凧を手に田んぼに出かけ、そこでひとり仕上がりを確認していた。
寒い日だった。ぼくは凧をひいて田んぼを駆けた。凧は上がらない。ぼくの後ろでぐるぐる回り、ともすれば地面にたたきつけられる。そのうち手がかじかんできて、ぼくは泣きそうになっていた。
「いかのぼりかい」
振り向くと老人がいた。近所では見かけない顔。土色のカーディガンをはおり、こちらを見ていた。ぼくは、いかのぼりという聞き慣れない言葉にとまどい、返事ができないでいた。「かしてごらん」
立ち尽くすぼくをよそに、老人はぼくの手から凧を取り上げると、ふーんむ、などと呟きながら眺め、「悪くないいかのぼりじゃ。しかしここのバランスが崩れておるな」
そう言って、しっぽの長さを調整した。
ぼくはじっと見つめたままだった。わきまえていた、というわけではない。ただなんだか、ほっこりした思いが胸に満ちていたのだ。
「さあできた。あげてみなさい」
老人に渡された凧を手に、ぼくは田んぼを走り出した。
指にかかる感触がまったく違う。確かな手ごたえがあり、ふわっと風を感じた。まるでぼく自身が空に浮かんだようだった。見ると、凧は夕空に舞い上がっていた。
「やった、やったよおじいさん」
振り向いた畔道に、しかし老人はもういない。
そのかわりそこにいたのは、厳しい表情の父親だった。
「こら、いつまでやっとるんや。もう遅いやろ、はよかえってこんかいな」
ぼくの胸はすっと小さくなったと思う。はい、と消え入りそうな声で答えた。空の上で舞う凧を片手に、ぼくは父親のもとへ向かった。父は凧を見上げた。
「いかのぼりか」
父が言った。その声の何かが、ぼくの胸を打った。父を見上げる。夕焼けを背景にシルエットばかりが黒く、表情を見ることはできなかった。ぼくは泣いた。
父はそれからもう少し何か言ったようだが、ぼくの耳に聞こえたのは、「帰るぞ」という言葉だけだった。
ぼくは糸を手繰り寄せ、凧を手に父の背中を追った。涙を拭き、ひとつの思いをかみしめた。
父さんも、いかのぼりって呼ぶんだ。
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- わきまえる
- (自分の置かれた立場から言って)すべき事とすべきでない事とのけじめを心得る。
- 不朽
- 後の世まで価値が失われないで残ること。不磨。
- いかのぼり
- [雅・関西方言]いか。→たこ(凧)
作者:小橋昭彦
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