Unplugged


邪心世界

 軌道エレベータを出たとたん、まだ幼い少年がぶつかってきた。そのまま人混みにまぎれていく。調べてみると、ミリテックスの懐中時計が無くなっている。
 男は舌打ちした。慣れない重力のため、動きが鈍くなっていた。
「手荒い歓迎だな」
 一緒に降りてきた若者に言う。
「まだまだ、降人(アーシアン)にとっちゃ序の口ですよ。なんせここは邪心世界ですからね」
 地球生まれという珍しい経歴を持つ若者はそう言って笑った。
「邪心世界、か」
 呟いて、男はステーションを見渡した。月側と違い、そこは汚れと不要物と異臭に満ちている。早く切り上げて帰ろう。男は歩き始めた。
 珍しいものを探すなら市場がいいという若者の薦めに従って、男はステーションに程近いジャンク・マーケットに足を踏み入れた。
 いきなり声をかけてきたのは臓器売人。自分の腹から腸を引きずり出しながら、切り売りしようと寄ってくる。それをやり過ごすと、儲け話があるよ、と老婆が声をかけてくる。甘いから飲尿療法には一番と自分の糖尿を売る若い娘。誰もが人を出し抜こうとし、隙きあれば奪おうとしている。
「ほんと、邪まなやつらばっかですね」
 そういいながらも若者は楽しそうに露店を見て歩く。男の方は、一刻も早く逃げ出して、温かな月の家でシャワーでも浴びたいと思っている。なんでこいつらは温暖化と酸性雨でぼろぼろになった地球に住み続けるのだ。月なら病原菌も、犯罪も無い。他人をだますことも、他人から奪うことも無い。
 数人の子供が男のわきを駆け抜けていく。一瞬身構えたが、子供たちは小さなゴムボールを弾ませて追いかけるのに必死だ。
 いや、ゴムボールにしては跳ね方が不自然だった。男が目を凝らそうとしたその時、ボールが子供の手からこぼれ、男の方に戻ってきた。ふわり、風船のような動き。男はそれをつかむ。ほとんど重さがない。
 これはなんだい、ボールを取り戻しにきた子供に尋ねる。無重力ボール。まさか。問い返す男に、
「月のお方は疑り深くっていかんなあ」
 よれよれのコートを着た老人が横から口を挟む。「そのボールには高度抑制装置が付けてあるが、それさえはずせば無重力空間まで飛ぶよ」ふあっふあっと空気が抜けるように笑った。ボールを作った老人だった。
 半信半疑だったが、男の手の中の感触が老人の言葉が真実だと訴えている。たとえ詐欺だとしても、月人にはこのトリックを創造することさえ不可能だろう。けっきょく、いくつかを購入して、帰路についた。
 軌道衛星から月に向かうシャトルの中で、男は片手に無重力ボールを転がしながら青い地球を振り返る。
 若者もやはり窓の外を見ていた。
「この間は医療用マイクロマシンでしょ。その前もやはり医療用の何かですよね。この無重力装置が本物なら、大きなインパクトを月にもたらしますよ」
「そうだな、うんそうだ」
 答えながら、男はボールで遊んでいた子供たちの歓声を思い出していた。しばらく見なかった光景のような気がした。
 地球は今もその混沌から新しい何かを生み出している。時には捌け口を探そうと、ときには見えない明日を見ようとして。平穏の中に創造することを忘れた月は、そのたびに自分が失ったものを地球から得るのだ。
 月が近づいてきていた。もうすぐ、温かいシャワーだ。
 邪心世界か。呟いて、男は目を閉じた。

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降人
降参した人。

邪心
人を陥れようとしたり、自分だけうまい事をしようとしたりする、よくない心。

捌け口
売れくち。はけぐち。

作者:小橋昭彦



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