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流される
小舟で放り出されたのが青森の沖だったから、オールもなく、ふつうなら千島海流にのって南に流されているはずだった。とはいえ、まだ東北は抜けていないだろう。
陸は見えない。どのくらい離れているのだろう。東北地方の海岸はリアス式で有名。地理の時間にそう習ったが、では水平線までの距離はどのくらいなのか、実際的な知恵は何ひとつ教わらなかった。
船尾に一輪挿しのように取りつけられた伝声管を少年は見る。君の望みをこの伝声管に吹き込めば船はそれを叶える土地に向けて進むよ。官吏はそう言っていた。それが、少年にとっての罪の償いだった。
望みってなんだろう。
少年は伝声管に口をつけた。「学校なんてくそったれ」ためしにつぶやいてみた。
空に上る煙のように、声は伝声管に吸い込まれていった。しばらくして、うぃんとモータの回る小さな響き。続いてごぼごぼと音がして、スクリューが回転を始めた。
少年は身を堅くして見守る。
だが、それだけだった。回り始めたスクリューは、しかし、ほとんど船を進めることなく止まった。
「空が飛びたい」
今度もモータは回ったが、スクリューはほとんど動かなかったようだ。
「ゲームがしたい」
同じだった。
くだらねえ。少年は船に身体を横たえた。たくさんある栄養チューブのひとつを、少し、すすった。
数週間が過ぎた。風景に変化はない。
ときどき、水平線の向こうに、同じように流されている者を見たように思った。彼のような罪を犯した少年の数を考えて度数分布をとってみれば、海の上で会う確率も分かるかもしれない。そう思ったが、数学で習った知識は、彼にその方法を与えるものではなかった。しかたなく、少年はただ流されていく。
日々は同じように過ぎていった。それは確かに違う一日のように思えたが、だからといって彼にとって何の意味もなかった。
ときどき、思い出したように伝声管に声を吹き込む。しかしいつもそれは、彼の思いには応えなかった。日々は、内臓を動かす平滑筋のように、彼の思いとは関係のないところで、勝手に動いていくのだった。
嵐の日があった。雨の日も、雪の日もあった。少年の船は変わらず流れていった。
ある日のことだった。
少年は誰かと話したいと思った。初めての思いだった。それは淋しさだったかもしれない。そう感じている自分に彼は驚いた。しかし冷静になって考えてみると、その思いは、罪を犯す以前からずっとあった気がした。
何かしゃべりたいと思った。伝声管に向かう。何を言えばいいのか。
ふと、ある言葉が口に出た。
それは、願いでも望みでもなんでもなかった。しかし、そこから何かが始められそうな気がした。
と、身体の芯までずんずんと震わせる、スクリューの響きがあった。
少し、動いただろうか。
何かが始まる予感がした。
もう一度、彼は吹き込む。
「母さん」と。
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- 度数分布
- 温度・角度などを示す数値。
- 海流
- 常に一定の方向へ流れる海水。暖流・寒流など。
- 平滑筋
- 脊椎動物の心筋、無脊椎動物の筋肉を除く内臓の筋肉。横紋はなく、著しく長い。
作者:小橋昭彦
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