Unplugged


 なぜひとりで飲んでいるのだろう。思い出せない。誰かと来たのだったと思うけれど、誰とだっただろう。その誰かは先に帰ってしまったのか。終夜営業の居酒屋のカウンターで、ぼくは不安になった。
 おまけに、隣では知らない男がぼくに話しかけている。いや、知っているのか。この居酒屋に来てから出会ったのだろう。
 すっかり酔っている。耳朶まで真っ赤に染まって。ろれつの回らない舌で、なおぼくに人生訓を説いている。いるよなあ、こんな輩。
 それでもぼくは断りきれず、もっとも断ったからって何をするあてもなく、それであいまいなあいづちを打ち続けている。
「青年よお、世があけたらおまえは何をする」
 酒臭い息を吐きながら男が言った。さあ、とぼくは首を振る。「ほら見ろう、だから最近の若いもんはなってないつってんだ」
 へへへ、とぼくは笑った。
「ごまかすんじゃねえ、おれはなあ、坂田三吉に生き方を教わったんだ」
 知ってらい、9四歩の人だろ。奇想天外の第一手を打って世間をあっといわせた将棋差しだ。定跡にとらわれないあの勇気に心を打たれたってんだろ。
「ばかやろう、だからまだまだ甘いってんだ。おれはそんな大それたことは言わねえよ」ぐいっとおちょこを傾けた。「だ。そんとき、香はどんな気持ちだろうなってな」しゃっくりをする。「第一手目から、いきなり自分の前の歩が動くんだぜ。びっくりしたろうなあ」
 ああ、それは考えなかった。
「でもなあ青年、いくらびっくらこいたって焦ったって、けっきょく香にはまっすぐ前に進むことしかできねえのさ」うんうんとひとりうなずいた。「自分の道を信じていくしかないってことさ」
 その後の記憶はあまりない。男は会社を辞め、ずっとやりたかった事業を始めたとか言っていた気がする。それは成功したのだったか。聞き忘れた。
 いつしか夜が明けかかっていた。席を立ち、ぼくはひとりで明け方の町へ出る。ひんやりした朝の風が夜の空気を押し流していた。
 深呼吸をする。
 誰と飲んでいたのか思い出した。その誰かがどうして先に帰ってしまったのかも。その誰かのところへ、まずは行こう。伝えたいことがあるから。
 ぼくは一歩を踏み出した。綿打ちされたばかりの、新しい一日の中へ。

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耳朶
[もと、「耳たぶ」の意]「みみ」の意の漢語的表現。

[将棋で]「香車」の略。

綿打ち
綿弓で綿を打って柔らかくすること(人)。

作者:小橋昭彦



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