Unplugged


異国の丘

 先ほどから車は、海岸の曲がりくねった道を日の沈む方向へ向けてひた走っていた。
 ポーラは少し不安だった。湾岸戦争のとき従軍看護婦として後方支援にあたっていた彼女だったが、日本という異国の地は、また違った居心地の悪さを感じさせる。その理由の多くは、後部座席に座る彼女の隣にいる、もう80になろうという老婆にあったかもしれない。今回の看護視察にあたって日本での案内役のひとりとして紹介された老婆は、しかし英語ができず、それどころか片足を悪くしており、移動中は彼女が車椅子を押さなくてはならない。
 老婆は、昔病院で働いていた縁で案内役に選ばれたそうだが、彼女とのコミュニケーションは、もっぱらドライバーを勤めているもうひとりの若い現役看護婦の担当だった。ポーラは早くこの女性の家に着くことを願った。彼女は英語も手慣れたもので、日本でのショートステイのホストファミリーを勤めてくれることになっている。
 老婆は話が好きらしい。車に乗り込んでから、ポーラが理解しているかどうかかまう様子なく、しゃべり続けている。その話にはとぎれめがなく、運転席の看護婦も通訳の言葉をはさむ暇が無い。小さな車内には老婆の声ばかりが響き、車は岬を回り、入り江を折れ、ポーラはさらに落ち着かない気持ちになっている。
 老婆は同じ話を繰り返しているようだった。ときどき挟まる看護婦の訳によれば、彼女は夫を亡くしたときの話をしているらしい。第二次大戦中のことだ。ポーラが湾岸戦争に行ったことを知って、そんな思い出話を始めたのか。
 老婆の夫は、中国で戦病死している。彼女の夫は、春まだ浅い頃、遺骨となって日本に戻ってきた。当時の労働環境は厳しく、葬式が営まれたときも彼女は病院で働かざるを得ず、勤務が終わってとんで帰ったのだという。葬式の時間は終わりかけており、なんとか間に合いたいと彼女は墓地との間に横たわる小さな山を越えようとした。どろどろになりながら道なき道を登り、ようやく頂上が見え、それさえ越えれば式が行われている墓地が見下ろせる、そう思って身体を支えようと握ったつる草が切れ、彼女は再び峻険な山肌を滑り落ちていく、そんな光景。
 ポーラは適当にあいづちをうっていた。正直言って彼女には遠い話で、実感がつかめなかったのだ。人は年をとると昔のことばかり思い出すという。そんなことを考えていた。
 またひとつ、車が岬を回った。湾の向こうに遠い陸地が見える。
「ありゃ中国かよ」老婆が尋ねた。
「いえ、あれも高知」若い看護婦が答え、そのやりとりをポーラにも伝える。それもまた、このドライブが始まってから何度も繰り返されたことだった。こちらの方面は初めてらしい老婆は、岬を回るたびに同じ質問を繰り返し、若い看護婦は同じ答えを返している。
 年をとると同じ言葉を繰り返す。ポーラはそんなことを考える。
「見えんかよ」
 西日を浴びながら老婆がつぶやき、しばし沈黙した。それから、なにかを呟いた。
 若い看護婦が車を止めた。老婆を振り返る。
老婆はそれに気づく風でもなく、海を見つめている。
 なんて言ったの、ポーラの問いに、看護婦は、老婆は詩を詠んだのだと答えた。和歌という短い詩。字数が破綻した、けっしてうまいとはいえないものだけど。
 それから、看護婦はその詩を訳した。

  いくまがり
  まがれども
  きみゆきし
  いこくのおかは
  みえざりき

 訳しながら、彼女は少し、涙声になっていた。ポーラはその詩を繰り返した。三度ばかり繰り返したろうか。ずん、と重いものが彼女の胸に落ちてきた。
 それは強い後悔だった。自分は少しも老婆を分かろうとしていなかった。彼女にとっての戦争をずっと過去のことだと思っていた。過ぎ去った日のことだと。
 しかし、戦争に愛する人を奪われた者にとって、それは薄れたり過ぎ去ったりすることはない。永続する「いま」なのだ。
 それからふと、湾岸で働いていたときの自分に、その国で今まさに永続する悲劇が、ひとりひとりのリアルな悲劇が生まれていることへの思いやりがあっただろうかと思った。それは苦い思いだった。
 そのとき彼女は決心していた。
 自分は、帰国をしたのち、彼女の御許に届くよう手紙を書こう。海の向こうの異国の地から、亡くなった彼女の夫がそうしていただろうように。

 その話を、ぼくは老婆から聞いた。老婆は数ヶ月に一通は来るポーラからの手紙をたいせつそうに自分のノートに写し、辞書を片手にひとつひとつの単語に意味を書き込んでいた。ぼくはそれを手伝った。
「わしは英語は二学期しかやっちゃあせんき。トインクル・トインクル・リトル・スターしか覚えちょらんが」
 そう言いながら、老婆は楽しそうに笑った。

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御許
(手紙で)「おもと」の丁寧語。

それどころ
(「それどころか」「それどころではなく」の形で)そんなのんきなことを言っている場合ではないという気持ちを表す。

峻険
山がけわしく高い様子。

作者:小橋昭彦



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